創作

現代文で、1年間に2回くらい、物語の創作をする授業があった。

私はこの課題が大嫌いだった。

特に伝えたいメッセージがあるわけでもなく、何もないところから物語を考えるのは苦痛だし、何より、好きな先生にセンスの無さを露呈してしまうことが嫌で仕方なかった。(これは創作の授業に限らず、教科書に載っている小説を読んで、感想を書かされるときにも思っていた。)

考える時間はあったのに、こんなにつまらない、ありきたりな話を書いたのだと思われるのが怖くて、何か面白いものを捻り出せないかと提出期限のギリギリまで粘ってみたこともあるけれど、結局はオチがどうしても思いつかなかったり、作品の仕上がりが気に入らなかったりして提出せずに終わることがほとんどだった。

実力を測られてしまうことを異常に怖がって、そもそも勝負をするという選択肢から逃げている感じ…。どことなく、李徴に似ている気がする。自尊心と羞恥心。

高校の現代文で扱う小説の中で、最も影響を受けたと言っても過言ではないくらいの話だったのに、こんな有様だ。山月記を読んだ後に書いた「李徴にならないように生きたい」という感想は既に嘘になってしまった。

話が逸れてしまったけど、とにかく、尊敬する先生に今の自分が持つ語彙力や発想力、想像力などの全てをさらけ出すのが本当に嫌だった。

作品を通して、自分自身の浅さを見透かされてしまいそうで、恥ずかしかった。

 

だけど、今になってふと考えてみれば、高校生のど素人がそんなに面白い話を作れるわけはないし、実際どうだったかはわからないけど、内容じゃなくて提出したかどうかで成績をつけていたんだろうから、どれだけ自分の作品に納得いかなかったとしても提出はするべきだった。

それに、先生はただ純粋に「この人はこんな文を書くんだなー」と思うだけだったんじゃないかな。それ以上でもそれ以下でもなく、そのまんまの意味で。

だから、恥ずかしがらずに、評価を気にせずに、もっと素直に書いてみればよかったと後悔している。たぶん、先生もそんなありのままに書かれた作品を読みたいと思っていたんじゃないか。まあ、それも今になって言えることかもしれないけど。

いやいや、でもやっぱり、おっと思うような作品も中にはきっとあったんだろうし。それが誰が書いたものかはみんな知らないんだろうけど。いや、もしかしたら「なかなかよかったよ」と言われた人はいたかもしれない。私はその人になりたくて、なりたくて…。