友だち

中学卒業以来、一度も会っていない友だちから連絡が来た。

幼稚園の頃に知り合って、小学校で仲良くなった。小学生の頃、この子と一緒に行動する時間が一番長かったと思う。

中学に入るとクラスが離れて、それぞれ別の部活に入って、だんだん話す機会が減っていって、違う小学校から来た子と親しくなった。その子だって私とは別の部活に入っていたけど、共通の趣味があったりして、かなり距離が縮まった。

その子とは別の高校に通っていたけど、頻繁に連絡をとったり、遊びに行ったりして付き合いが続いている。多少の変化はあるかもしれないけど、話し方や人間性は中学の頃とそう変わっていないと思う。というか、緩やかに変化しているだろうから、大きなショックはない。

ただ、小学校で一番仲のよかった、私の中では相棒と呼べるくらいだった(と思う)存在のその子と連絡を取り合うのは本当に久しぶりで、それまでの私の話し方なんかを完全に忘れてしまって、返事をするのになかなか勇気が必要だった。

何が怖いんだろう?

勉強に部活、いろんなことをかなり頑張っていた子だから、もし納得のいく生活を送れていなかったとしたら、近況を聞いたりしたら、何気ない一言で、傷つけてしまうかもしれないことか。それもそうだけど、もっと根本的なところな気がする。あの頃の私じゃなくなったと思われることか、あの頃のあなただと思えなくなることか。結局、私自身が変化を恐れているだけなのか。よくわからない。変わることは悪いことではないんだけど、変な方向に転がってしまっていないか…。

久しぶりに連絡が来て、心の底から嬉しかったし、これを機に会えたりしないかなと思ったのだけど、怖い…と形容するのが正しいのかわからいけど、少しだけネガティブに思ったのも本心だった。

今までの私たちはどんな風に喋っていたのだろう。

創作

現代文で、1年間に2回くらい、物語の創作をする授業があった。

私はこの課題が大嫌いだった。

特に伝えたいメッセージがあるわけでもなく、何もないところから物語を考えるのは苦痛だし、何より、好きな先生にセンスの無さを露呈してしまうことが嫌で仕方なかった。(これは創作の授業に限らず、教科書に載っている小説を読んで、感想を書かされるときにも思っていた。)

考える時間はあったのに、こんなにつまらない、ありきたりな話を書いたのだと思われるのが怖くて、何か面白いものを捻り出せないかと提出期限のギリギリまで粘ってみたこともあるけれど、結局はオチがどうしても思いつかなかったり、作品の仕上がりが気に入らなかったりして提出せずに終わることがほとんどだった。

実力を測られてしまうことを異常に怖がって、そもそも勝負をするという選択肢から逃げている感じ…。どことなく、李徴に似ている気がする。自尊心と羞恥心。

高校の現代文で扱う小説の中で、最も影響を受けたと言っても過言ではないくらいの話だったのに、こんな有様だ。山月記を読んだ後に書いた「李徴にならないように生きたい」という感想は既に嘘になってしまった。

話が逸れてしまったけど、とにかく、尊敬する先生に今の自分が持つ語彙力や発想力、想像力などの全てをさらけ出すのが本当に嫌だった。

作品を通して、自分自身の浅さを見透かされてしまいそうで、恥ずかしかった。

 

だけど、今になってふと考えてみれば、高校生のど素人がそんなに面白い話を作れるわけはないし、実際どうだったかはわからないけど、内容じゃなくて提出したかどうかで成績をつけていたんだろうから、どれだけ自分の作品に納得いかなかったとしても提出はするべきだった。

それに、先生はただ純粋に「この人はこんな文を書くんだなー」と思うだけだったんじゃないかな。それ以上でもそれ以下でもなく、そのまんまの意味で。

だから、恥ずかしがらずに、評価を気にせずに、もっと素直に書いてみればよかったと後悔している。たぶん、先生もそんなありのままに書かれた作品を読みたいと思っていたんじゃないか。まあ、それも今になって言えることかもしれないけど。

いやいや、でもやっぱり、おっと思うような作品も中にはきっとあったんだろうし。それが誰が書いたものかはみんな知らないんだろうけど。いや、もしかしたら「なかなかよかったよ」と言われた人はいたかもしれない。私はその人になりたくて、なりたくて…。

好きな人の好きなもの

もう会うことはないであろう好きな人が教えてくれたバンドばかり聴いている。

全く世代じゃないし、彼らの代表曲を聴いてもあまりいいなと思えなかったけど、好きな人が教えてくれたのが嬉しくて、好きな人がどんな音楽を聴いていたのか気になって、ずっと聴いていたらだんだん好きになってきた。

不純な動機で聴いていたのが彼らには申し訳ないけど、今では好きな人の存在を抜きにしても彼らの音楽が好きだと言える。…と、思う。

やっぱり、好きな人が好きだと言ったことで補正がかかっているのかもしれないし、曲を通してまだ好きな人を追いかけ続けているのかもしれない。